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論文の一人称って何にすべき?

論文の一人称について。私?我々?

論文の一人称って何にすべき?

あらゆる学術論文において、一人称として「私」は絶対に使いません。結論を先に述べると、卒業論文において自身の考察や批判、また自身の結論を述べる際に使うべき一人称は「我々」です。ではなぜ「私」を使ってはならないのか。そもそも論文とは、誰が判断しても同じ結果を導くというような論拠に基づいて結論を示す必要があります。したがって、そこに個人的な「感想」や「意見」は必要ありません。たとえば、何か「おかしい」と思ったことを指摘する際には、どこが「おかしい」のかを、論理的に説明する必要があります。その際の論拠となるのは、個人的になんとなく「おかしい」と思った、などというものではもちろんダメです。というのも、それではあくまで個人の判断によって左右されるものとなるので、自分以外の他の人にとっては「おかしい」と思わない可能性があるからです。それゆえに、「私はおかしいと思う」では論拠にもならなければ、正当な主張にもならないのです。
では、「我々」と述べるとどうなるのでしょう。そもそも「我々」を主語として用いるためには、その文章全体が一般的に妥当するものでなければなりません。というのも、「我々」は単に「私」個人の意見ではなく、「私たち皆」の意見や主張であることを示すからです。それゆえ、たとえば「我々は〜ということに疑問を持つだろう」と述べる場合を考えてみよう。その場合、私以外のどの人が見てもそれを疑問に思うだろう論拠を示す必要があります。これが示されて初めて、論文という論拠に基づいて一般的に論を展開する文章となります。もしこれが単に「私」にとってはそう思える、というものにとどまるのならば、それはあくまで「感想文」や「批評」に過ぎません。したがって、卒業論文においても、「私」という一人称ではなく「我々」を世間一般的に見て全ての人という意味で使う必要があります。
ここで、そんなに一人称を広げてしまっていいのかという疑問が湧くかもしれません。そのような不安に陥ったならば、一人称を「私」にしてしまうよりも、自身の主張をより補完する論拠を見つけた方が良いです。むしろ、このように誰がどう見てもそうだとしか言えないような論拠(データによる証拠や、文系の場合は引用など)を厚くすればそれだけいい論文ということになります。大学院や研究者が何のために膨大な時間をかけて研究しているかといえば、この論拠の部分を厚くするための資料をとにかく集めるためと言えます。さらにこの論拠の正確さ、厚さのためにできることとして、自身の主張に対し想定される批判、もしくはすでにある自身の主張と相いれない理論などに対する反駁を行うことが挙げられます。ここまでを論文に全て盛り込めるのであれば、一人称を広世間一般に妥当するものとしての「我々」とすることに対しても、違和感や不安は消えるでしょう。
卒業論文は、大学生にとって初めてにして最後のきちんとした学術論文です。この論文というものが、レポートや感想文やまとめのようなものとは全く違うものであることを心に留めなければなりません。つまり、単に「私」の感想を述べるだけではダメなのです。そこには、読んだ人皆が納得できるような論拠に基づく主張や批判が必要なのであり、それゆえにその主張を述べす際に用いられる一人称は複数形の「我々」にならなければならないのです。したがって、論文を書く人はまず、自身の主張が一般的に誰でもが同意できるものであるかどうか、もしくはどのような論拠を示せば誰もが認められる主張になるのか、ということを念頭に置いて出発しなければなりません。そのために、まずは自身が述べたい一番の主張や批判を見つけ、それに対する論拠をたくさん集めることで、客観的に信憑性のある良い論文を書くことができます。
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